京論壇2016公式ブログ

東京大学と北京大学の学生討論団体、京論壇の活動報告ブログです。

我々の義務とは

敢えて言うが、京論壇に参加してみて、その在り方に疑問を抱いている。もちろん、京論壇の諸先輩方の努力を否定するつもりはないし、自分もまた京論壇の一員であることを差し置いてのことである。その理由を少し述べさせてほしい。 

いささか単純化して言うならば、京論壇は、完全な意味での他者との交流ではない。異質なものに触れ、理解しようとすることを国際交流というのであれば、東大と北京大の学生だけが集って議論する場所にあるのはどちらかと言えば同質性であり、異質性ではない。我々は英語という異国の言語を操り、共通の西洋の概念を用いて議論し、同じような業界に就職する、同質な集団である。我々のテーマであった「社会的正義」にしたところで、議論して出てくるのはただ、自由や功利主義といった、西洋の概念の焼き直しに過ぎなかった。 

 勿論、エリートの同質性は、日中が同質であるということを意味しない。それは単に、我々がそれぞれの国の社会的・文化的文脈から半分遊離してしまっているということを意味するに過ぎない。我々の多くにとっては、過疎も、貧困も、不景気も、「社会問題」として論じる対象であって、自分たちの出来事ではない。東大生も北京大生も、そういった意味で、日本社会や中国社会の僅かな部分をしか代表していない。 

 このように言えば、たくさんの友人や先輩方からお叱りを受けるであろう。北京大の学生との議論で、彼らがいかに「安定」を重視するのか、聞いただろう。共同生活の中で、行動規範の違いがあることも、思い知ったであろう。やはり北京大生と東大生は違うではないか、と。それは確かに正しい。ただそれは、「これが私たちの発見した『違い』です」と、取り立てて言うほどのものであろうか? 

 正直に言えば、僕には「安定」という議論にしても、社会規範にしても、埋められない溝だとは感じなかった。受け入れられない議論もあるが、少なくとも相手が何を言っているかはわかる。意見が一致しなくても、理解できれば、話し合いはできる。説得もできるし交渉もできる。それが即座に永遠平和につながるわけではないが、中国のエリートを相手にする限りにおいては、平和の基礎はあるといってよい。 

 それより僕が深刻な溝を感じたのは、同じ日本人のはずの、相馬高校の先生と議論をした時であった。議論の一環として、先生をお招きして、被災地の高校生の思いを伝えるDVDを上映していただいた。原発の処理について国や県庁への怒りを口にする先生に対し、僕はなぜ先生が県庁や政府を「敵」と決めつける思考法になっているのか、ついに理解することができなかった。こちらの言葉とあちらの言葉がかみ合わず、まるで違う言葉を話しているかのように、議論だけが空を切る――深い絶望感に、3.11が我が国に残した溝を思い知った。 

 原発の例は極端と言うかもしれない。では沖縄はどうだろうか。TPPに苦しむ東北はどうであろうか。新自由主義が格差を広げたと巷に言うが、ことはそんなに単純ではないのではないように思う。経済的にだけでなく、ものの考え方、話す言葉、そういったところにも溝は生まれてきているのではないか。呆然とBrexitやTrumpを眺めて嘆息する欧米のエリートの姿は、我々の身にも起こりうることではないのか。第一次世界大戦は、エリート同士の無理解から起こったのではなく、むしろ国境の中に走った深い溝によって引き起こされたものであった。 

だから、エリートは、自分たちだけに分かる言葉でエリートだけの世界と交流していてはならないのではないか。外国のみならず、東京にも福島にも熊本にも沖縄にも、知るべきことがあろう。海外交流というなら、まず自国で何が起こっているのか、自分が身をもって知らなければならない。ここに自戒の念を込め、また僭越ながら同学諸氏に問題提起をさせていただいて、京論壇の感想に代えたいと思う。 

「よくわからなさ」と向き合う ~「一人っ子政策」に関する議論~

こんにちは、人口発展分科会メンバーの齋藤勇希です。

10/8の京論壇最終報告会をもって、約5ヶ月の人口発展分科会の活動が終了しました。

今回は、東京セッションで行った「人口政策」についての議論を紹介しつつ、個人的な成長について語れたらと思います。

  

ところで、「人口政策」とは何でしょうか?

  

広義には、人口の移動に影響を与える政策(移民政策、中国の“戸口[hukou]”(戸籍制度)など)、人口の質に影響を与える政策(健康を増進させ、寿命を延ばすなど)も含むことがあります。

しかし「人口と発展分科会」である以上、日中の学生で議論するにあたってやはり避けては通れない話題として「出産をコントロールする政策」、特に所謂「一人っ子政策」があります。

(正確には、農村や少数民族に関しては二人っ子以上認められていたため、「一人っ子政策」というのは語弊があると北京大側が強調していました)

 

ご存知の方も多いかもしれませんが、2015年から中国は急速な高齢化社会に対応するため「一人っ子政策」から「二人っ子政策」に移行し、今では二人まで罰金なしに産むことができます。ただ、中国国民にとってもはや「一人っ子」が当たり前となってしまい、二人目を産もうと思わなくなっているという現状があるのは興味深いです。

 

北京大学の学生としては、「既に過去のものとなった一人っ子政策について議論をしてどうするのだ」という想いだったかもしれませんが、それでも日中両学生の等身大の価値観を探るため、あえて「1978年に導入された一人っ子政策」について、それを許容できるかどうかというテーマで議論しました。

というのは、東大側は中国で「一人っ子政策」を実行するために強制中絶や強制不妊手術が行われ、女性の産む権利や身体、胎児の生命が侵害されていた事実を知っていたからです。

 

東大側の予想としては、中国のSNSで強制中絶のショッキングな画像が投稿され注目されたこともあり、中国で最もリベラルな場所の一つである北京大学の学生は、明白な人権侵害を伴う「一人っ子政策」のような産児制限にはさすがに反対するだろうと考えていましたが、この予想は見事に外れ、分科会の全ての中国人北京大生がこの政策を支持しました(シンガポール人の北京大生は不支持)。

たかだか10人のメンバーではサンプルが少なすぎるかもしれませんが、それでも全ての中国人学生が支持側に回ったのは興味深いです。

 

京論壇はwhy?を繰り返していく議論を特色としているので、ここでもwhy?を繰り返して相手の主張を深掘っていったところ、面白い発見がありました。

 

中国人学生が紹介した「集合的人権(collective human rights)」という概念です。

これは、「集団全体の利益」といった意味に近いそうで、なるほど政策実行の手段は確かに女性の身体や赤子の命を侵害しており問題ではあるが、「一人っ子政策」のおかげで中国の人口爆発とそれに伴う飢餓・貧困が止められたのだから、その意味で「中国全体として」人権は守られたということのようです。

政策の目的(と効果)により「手段は正当化される」("The end justifies the means. ”)という主張もありました。

 

彼らにとってはやはり「まず国家あっての人権」という意識であり、国益と人権というものがより強固に結びついているのです。

北京セッション中にかなり雄弁に政府批判を繰り返していた北京大生にとっても、やはりこの政策について議論していると「政府≒個人」という意識になる。

これは面白い発見でした。

 

このことは、日本の現在の少子化対策について議論した時にも如実に現れます。

 

東大の学生としては、「アベノミクス新三本の矢」という経済成長達成手段の一つとして「希望出生率1.8%」が掲げられていること、あるいは、政府が十分なサポートを提供することなしに「子どもを産んだ方がよい」というプレッシャーばかりかけてくることが気に食わないという主張でしたが、北京大生としては「何が問題なのか?」という様子でした。

 

東大側としては、GDP増大のための少子化対策というのは個人の自由な私的決定に不当に干渉しており、正当性が感じられないと考えていましたが、北京大生にとって、国家の経済発展が個々の国民にいわばトリクル・ダウンするということは当然で、「出生率増加によるGDP600兆円の達成=日本国民一人一人の利益」ではないかという意識だったのです。北京大生の「集団的人権」という概念がここにも顔を出し、大きな価値観の違いを認識しました。

 

勘違いしないでいただきたいのは、「北京大生に人権意識がない」というわけではないということです。

彼らも、「人権は西洋の概念(western concept)だと感じる」とは言っていたものの、もちろん生命や身体の侵害、「産む権利」の侵害を問題視していないわけではありません。

一人っ子政策」の場合も、あくまで差し迫った飢餓・貧困の連鎖を断ち切るためのものであり、”The end justifies the means”.というわけです。

 

なるほどと思いました。

日本人としても、「公共の福祉」により個々人の自由が制限されるということ自体には賛成なので、どこまで許容するかという程度問題なのかもしれません。

 

「人口政策」の議論では、そんなことを学びました。

 

正直に言うと、個人的には「韓国や台湾、香港の学生と比べて中国本土の学生ってよく彼らだけで固まってしまうし、言っていることもなんかちょっとよくわからない…」という印象を持っていました。

しかし、人口政策に限らず、今回日中の学生だけで二週間インテンシブに議論する中で、少なくとも彼らの言っていることは「筋は通っている」と思うようになり、それは大きな収穫だったと思います。

  

我々はあくまで東京大学北京大学の比較的リベラルな層の声しか代表していないのかもしれません。

 

自分は四月から日本の公的機関で働くこととなりますが、残念ながら京論壇に参加した北京大生の中に中国政府で働くことを目指す学生は見当たりませんでした。

京論壇の参加者のようなある程度リベラルな価値観を持ち合わせた中国指導者ばかりではないのかもしれません。

京論壇での話し合いはしたがって、将来中国のカウンターパートと話し合うときにそのまま役に立つわけではない可能性もあります。

  

しかしそれでも、リベラルで西洋寄りの価値観と中国的な価値観を併せ持った北京大生が、ある種日本と中国の橋渡しのような役割を果たしてくれたおかげで、自分が京論壇参加前に抱いていた「中国本土の学生ってなんかよくわからない」という想いはかなり払しょくされました。

 

中国という国に関しては、「一人っ子政策」を離れても、南シナ海東シナ海の問題、抗日教育をはじめ、日本人にとって「なんかよくわからない」ことがいくつかあります。

しかし、その「よくわからない」という感情をむき出しにするよりも、一つずつじっくり議論してたとえ共感できなくともお互いを理解しようとしていくこと、その上で対話すること、それが結局はこの大きな隣国とうまく付き合っていく鍵なのではないかと思いますし、その姿勢を二週間かけてじっくり学べることが京論壇に参加する意義ではないかと自分は思います。

  

就職活動でセッション前の準備が十分にできていなかった上に時々よくわからないことを言い出す、そんな自分を優しく受け止めてくれた人口発展分科会のみんな、そして京論壇を支えてくれた運営メンバーや協賛企業の皆様、関係者の皆様、この貴重な機会を与えてくださり誠にありがとうございました。

 

細々と東アジアの学生会議に関わり続けてきた自分の大学生活を締めくくる大変有意義な日々になったなと感じています。

この経験を活かしつつ、日中関係が少しでも誤解と不信から解放されるよう、自分にできることをコツコツとやっていこうと思います。

 

東京大学国際関係論コース4年

齋藤勇希

LGBTQと確証バイアスについて

人が、人であるからという理由だけで、与えられるべきものは何か。

誰がそれを与える責任があるのか。

それはすべての人に共通なのか、人によって強弱・優先順位などの差異があるのか。

基本的人権とは何か。

人間とは何か。

 

この問いは、人間が作り出したアイデンティティの枠組みをも人間の思考を規定する言語をも超越し、普遍的に、個々の人間の時間を超えて、生き続けている。

もちろん、中国人・日本人という枠組みをも超えて、である。

 

社会的正義分科会では、普遍的正義があるのか、あるとしたらそれは何であるのかを中心的な問いと した。しかし、抽象度の高い議論ばかりをしてもあまり実りがないとも思われたため、自分が自分の国、相手の国において、具体的に「正義」「不正義」を感じる場面はどこであるか、なぜそれに不正義を感じているのかをそれぞれ共有し、北京セッションではそのうち経済的格差、ジェンダーの問題について扱った。中国人と日本人の「正義を語る言葉」、つまり、功利主義自由主義の理解の仕方は一致していて、中国人であるからとか日本人であるから正義観が違う、ということはなかった。しかし、これらの問題の間では割れた観点もあり、北京セッション後の中間発表ではその差異に着目した発表、すなわち、この二つの問題に対する現状認識の差が浮き彫りになるような構造を意識した。

私の感想文は、同じ社会的正義分科会の中山さんのものを補完する形で後者のジェンダー問題を中心にしたいと思う。

 

少し恥ずかしい話から始めさせていただきたい。

私は性自認も生物学的性別も女である。恋愛対象も今のところは多分男性である。京論壇参加者の多くもこのブログの読者の方の多くも私と同様、この二つが一致している人が多いと思う。だが、性自認が生物学的性別と違う人もいれば、同じであっても恋愛対象が同性の人ももちろんいる。これは「当たり前」のことだ。でも、私は大学に入るまでは、これらが一致していない人はすべて「ゲイ」であると思っていた。あるいは、それらのマイノリティをすべて「ゲイ」と呼んでいた。

事実はもう少し複雑である。性的マイノリティにも多くの種類があり、最近よくLGBTQ(Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender, Queer)と言われるように、それぞれ若干異なるものを求めている。一般化してしまうとその内部での複雑なintersectionality失われてしまい、それぞれの個性を無視することになってしまう。大学に入ってLGBTQ問題にニュース等で触れ、また個人的な知り合いにLGBTを自認する人が増えるとだんだんとその差異の重要性がわかるようになった。だが、日本の私立中高一貫校に通い、性的マジョリティの一員であった私は、少なくとも高校までではそのような考え方に触れることもなかったし、おそらく大学での所属コミュニティが違ったら、LGBTQの人が現状で問題を抱えていることに対する関心すらもたなかっただろう。

 

もう少し恥ずかしい話をしたい。

日本では現状、憲法24条で、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とされていて、字句通りに解釈すると同性婚憲法上禁止されている。まだ裁判所にもその合憲性・違憲性の問題が提起されていないのは、多くの場合同性愛者が結婚できる、というそもそもの発想が浸透していないからであろうか。比較的プログレッシブな渋谷区でさえ、同性婚が認められたというニュースが耳に新しいくらい。もちろん、同性婚が性的マイノリティの問題のすべてであるとは到底言えないが、一つの指標としてあるのは確かで、日本ではその指標に対する国民意識すらあまりない。

しかし、この恥ずかしい現状は、日本だけではない。中国では、数か月前に放映されていた二人の男優の恋を描く人気のドラマが放映禁止になったり、ゲイバーへの締め付けが厳しくなったりと、LGBTQへの理解が政権からも民衆からもあまりない。

日本と中国の正義と不正義について調べていく中でこれらの不正義が浮き彫りになった。

 

この二つの話は、個人としても、一国民としても恥ずかしい話である。国民としては、これは明らかな不正義の事態であるから恥ずかしいと思う。なぜほかの人は自由に結婚できるのにLGBTQの人はその権利を持っていないのか。国のもとで平等ではないのか。仮に多数派が反対していたとしても、なぜそれが権利抑制の理由として使われていいのか。そんな国家に所属している私もその責任を負うのではないか。

だが個人としてこれが恥ずかしいのは、マイノリティであるができない、それなのに理解したつもりになってしまうことである。彼らの苦しみはおそらく私には理解できない。でも、だからこそ、本来は理解した気にならず、なるべく彼らに寄り添う必要があり、それで彼らが望む社会的態度をとらなければいけない。そして彼らも納得できて包含できる正義の法則を作らないといけない。

 

LGBTQの事例を掲げたが、この構造と同じ問題はほかのすべてのマイノリティに対して当てはまるといえる。女性の育休問題について議論した際、やはり男性の参加者は子供を産み、育てるというのがどういうことか、その後のキャリアを持つのがどういうことかをあまりイメージできていなかった印象を受けた。企業や議会におけるの話を北京セッションでした際、意外にも女子のほうが男子よりクオータを否定した。それは、クオータを導入することで女性が優遇の対象、努力をしていないもののように見られることを懸念して、であった。

そしてまた、その「理解したつもり」というのは、中国人と日本人との関係でもいえた話であった。北京での中間発表では、中国人であるからとか日本人であるから正義観が違う、ということはあまりないと発表したが、それは個人的にはある種の怠惰のように感じられた。ジェンダー問題に関しては、北京と東京での「正義」のぶつかりがあった、からだ。ジェンダー問題において、中国と日本との間には女性の評価・子育ての方法の違いという、社会的コンテクストの差が明白にあった。確かに、いわゆる「正義論」の段階(自由・平等・功利)では中国人も日本人も特段異なる考え方をしていなかった。でも、その内実の定義の仕方はそれぞれの個人でかなり違ったように感じられた。そしてそれは各自が当然として育てられた正義観で自己完結的に説明されているように感じた。

 

普遍的な正義を作り出すことは簡単だと思う。誰しも、平等とか功利とか幸福が悪いとは言わない。だが、それに基づいてより具体的な政治的決断に至ろうとするとき、あるいは社会的な問題・バイアスを評価するときには、よりシビアな、具体的コンテクストの分析が必要である。普遍的正義の問いばかり立てる日本側の学生に対して 、北京の学生がそう挟み込んだ。事実、そうだと思う。原理として「正義とは」について語れたとしても、その原理のあてはめ方は人次第であり、原理的に正しいことをしても結果がよいとは限らない。

 

東京セッションでは、北京でなかなか話題に出せなかった地域的マイノリティについて、また言論の自由と政府統制について議論していくつもりである。もう少し、具体的な事象に踏み込み、それぞれのバイアスの方向性を指摘していける議論ができたら、と思う。 

 

京論壇2016 社会的正義分科会

有元万結

噛み合わせの悪い人口問題と、噛み砕きたい議論

北京セッション中に誕生日を迎えました、「人口と発展」分科会メンバーの三輪です。かつては円明園の一部だったという北京大構内の湖のほとりで、他の分科会メンバーからサプライズケーキまで用意してもらい、なんとも特別な体験になったと嬉しく思います。と同時に、扱うテーマの影響なのか、なんとなく悲観的に考えてしまう自分もいたりするのでした。高齢化が加速していくにつれ、「加齢=若者の成長=社会全体の成長」とみなされた時代は終わり、「加齢=老人の増加=社会の衰退」だと考える傾向が強まると考えられます。五木寛之が「嫌老社会」という言葉を用いましたが、老人を「負担」と考え、老いを嫌悪するのであれば、誕生日に生を祝うこともなくなってしまうのではないかと一抹の不安を覚えてしまいます。個人的には、こうした人口問題を考えていくときに生じる違和感を常に抱き続けたセッションになりました。 

 

まず「人口と発展」分科会は、全体を見通すため、「人口問題はなぜ問題なのか」という大きなトピックから議論をスタートさせました。この問い自体においては、東大側と北京大側との間でうまく土俵を合わせて議論ができなかったように思います。しかしその原因を考えることによって得られる学びがありました。それは、人口変動はそのものだけでは問題とはなりえないということです。報道などでは、「出生率低下」自体が「悪」といった直線的な因果関係で語られることも多いと思いますが、より正確にいうとすれば、人口変動、社会経済システム、価値観の変化が互いに食い違うとき、問題となって立ち現れてくるのではないかということです。議論がかみ合わなかったのも、視点の遷移が問題の様相をいかようにも変えてしまうせいだと思います。 

 

もう一つ大きな学びをあげるとするならば、「他者という鏡を通して自分を見る」という体験の片鱗を味わえたことでしょう。それは、「リタイア後の高齢者の就業促進」について意見を交換した際のことです。就業促進を肯定する側にたった私は、就業を続けることに金銭的な保障だけでなく、健康増進や社会参加の側面があるという意見で他のメンバーと合意しました。しかし、否定側のとある北京大生からは、「だって働くことはBurden(=負担、役務)でしょ、なぜリタイアしてからも働く必要があるの」と投げかけられてしまいました。個人的にはなぜかこの部分にギクッとしてしまったのです。 

 

その北京大生は、長時間労働で有名な日本人こそ「仕事はBurden」であるという考え方が強いのだと思っていたようでした。私はまだ自分で生計を立てたことのない学生ではありますが、経験的にこの指摘は正しく、多くの人が「仕事はBurden」だと考えていることは間違いないでしょう。けれどもタテマエとしてはそんなことを言ってはならないし、就活でも「やりがい」や「自己実現」がなによりも先に立ちます。そして退職年齢を過ぎても働くことが良し、健康な限りは働く、と考えている人が多いという統計的事実があります。まとめると、現代日本の労働におけるにっちもさっちもいかない状況が見えてきます。つまり日本の労働環境で働けば、Burdenを負いすぎて「過労死」する可能性さえあるのに、老後に全く働かなくなると、社会参加の手段を絶たれ「孤独死」するという両極性があることを否めません。 

 

そうした社会通念のなかに潜む矛盾が浮き上がってくるのも、一つの大きな発見でしたが、北京セッションを通して、東大側がよりこうした社会通念に対し、歪みや疑問を感じていることにも気づきました。こうした「噛み合わなさ」の程度が人口問題の深刻さを示しているのかもしれません。さあいよいよ後半戦、東京セッションが始まりました。より充実した議論を目指し、他者を鏡としてさまざまな自己発見をしていきたいと考えています

リーダーシップ分科会北京セッション報告:反省文

私は普段から中国政治の動向に関心を持っている。私が所属するリーダーシップ分科会の他のメンバーよりも、中国についての知っていることは多いかもしれないと思っていた。そうした「知っていること」にこだわったことが北京セッションでの議論を混乱させた。このことに関する反省がこのブログの趣旨である。

 

 北京セッションでの議論の中で最も印象に残っているのは、政治的リーダーと人々との距離感が日中で全く違うことだ。日本では、この距離感は近く、中国では遠い。例えば、日本ではメディアが政治的リーダーの政策や立ち居振る舞い、時には人柄にまで踏み込んで報じるのに対し、中国ではそれがないという。

 また、リーダーシップ分科会の別のメンバーが北京セッションの総括で述べた、リーダーに対する寛容度の違いなども、こうした距離感の違いと関わっている。日本では、リーダーは誤るものとして考えられており、先述したようにメディアなどを通じて監視がなされている。そのため人々はリーダーについてある程度知ることができる。つまり、不信感が強い故に、距離が近いと言える。

 一方中国ではリーダーに対する信頼は厚い。リーダーは、事前にリサーチされたことを元に、政策の基本的な方針についてのみ発言する。そして、トップから基層のガバナンスに至るまでに政策が具体化していく。政策がうまくいかなかった時の批判の対象は地方政府となるので、政治的リーダーへの信頼は崩れず、距離も遠くなるのである。

 

 こうした距離感の違いを強く感じたのは、私が、中国の政治的リーダーに対する「個人崇拝」について北京大生に尋ねた時である。日本では、文化大革命50年を機に、「個人崇拝」に関して中国で起きている現象(政治的リーダーを讃える歌や絵)について批判的に報じられた。また、「個人崇拝」を匂わせるような現象は、日本国内では決して受け入れられないだろう。

 まず、リーダーをたたえる歌があることについて尋ねると、北京大生の一人は、「あれは滑稽なものだ」という風に答えた。実際その歌の動画を一緒に見たが、北京大生は一様に笑った。

 どうも納得がいかなかったので、翌日の議論で、「個人崇拝」について人々はどう思っているか、リーダーへの権力の過度の集中はまずいのではないか、などと質問した。しかし、北京大生にとって、「個人崇拝」について何度も問われることは心外だったようだ。やはり彼らとリーダーとの距離は遠い。たとえ東大側がその証拠となり得るようなものを提示したとしても、「個人崇拝」という、リーダーとの距離が極端に近づくようなことが現代に起きるとは、彼らは想像がつかないようであった。

 

 この質問をめぐって、議論が大変混乱した。それは私が、私なりの視点にこだわってしまったからだったと言える。

 「個人崇拝についてはわからない」「現実味がない」という北京大生に対し、なお「個人崇拝が起きたらまずいと思わないのか」などと聞いてしまったために、時間を無駄に使い、しかも得られたものはあまりなかった。リーダーとの距離感、及びリーダーへの信頼感が全く違っている相手のことを理解せず、このような質問を投げ続けたのはナンセンスだった。

 私自身も、アメリカのメディアが日本の右傾化について書いた記事を読んで、この記事に書かれているようなことは起こっていないのではないか、と思ったことがある。北京大生も同じような気持ちだったのかもしれない。外から見えることと中から見えることは違うという、ある種「当たり前のこと」を、私は議論中に思い出すことができなかった。このことをよく反省し、東京セッションに臨みたい。

 

 東京セッションでは、リーダーと情報との関係というテーマがメインになる。この中には表現の自由なども含まれ、非常に論争的で、興味深い内容となっている。今回の記事で述べてきた、リーダーと人々との距離感についてもさらに切り込めるのではないかと考えている。

 

 価値観の違う相手との議論は、いくら事前に調査をしたところでかみ合わないこともある。それを自覚した上で対話をすすめ、時には謙虚に自分の見方や知識を見直す必要がある。

 格好いい締めくくりの文章は思いつかないので、私が議論の最中に思い出すことのできなかった「当たり前のこと」を強調し、筆を置くことにしたい。

 

 末筆ながら、北京セッションに関わって頂いた全ての皆様に感謝申し上げる。

異なるリーダー像、価値観、システム、社会と向き合って

はじめまして、東京大学文科一類2年の平田紗和子と言います。北京セッションでは、私達はそれぞれの国のビジネスにおけるリーダー・国内政治におけるリーダーの相違点について議論しました。本ブログでは後者の議論に絞り、内容の一部をシェアさせていただきます。

 

 私達は議論の最初にそれぞれの政治的リーダーの特徴について知るため、東大側・北京大側に分かれてそれぞれの国の政治的リーダーの特徴を五つの単語にまとめました。北京大側から出てきた単語の中で、彼らがその後も繰り返し強調する言葉がありました。それが"undeniable"(「否定できない」)という言葉でした。

 この言葉から、強圧的なリーダー像を想像する方もいらっしゃるでしょうか。しかし、彼らの言うundeniableには二つの意味、即ちpowerfulとtrustworthyの意味が含まれるというのです。powerfulとは強力なイメージを持つこと、「反論するのが難しいこと」であり、trustworthyは言ったことを必ず達成するということだそうです。中国の政治的リーダーは議会の多数派の党首である日本のリーダーと異なり、国民による直接選挙を経て地位が変わるわけではないので票を得るために国民に対し約束(公約)をする必要がありません。そのため彼らは本当に実行可能なことしか約束せず、彼らの言うことのすべては政策に基づくのです。彼らは、民衆の前ではなく部屋の中で関係者に向けて行う「講話」と言われるスピーチを時々行います。それは多くの政府関係者が練ったうえで発表され、新聞に載るものもあります。何らかの政策についてスピーチがなされる時にはその政策はある程度実行可能性とそのための基盤があるとみなされ、またリーダーのスピーチを元にした政策は地方レベルで具体化し実行に移されることが多いそうです。そのため人々は未来の政策のヒントを読み取って今度の行動を考えようと強い注意・関心を向けます。

 

 ここで東大側には疑問が生まれました。いくらリーダーがよく練られ準備万端な政策しか発表しないといえども、政策がうまくいかないこともあります。その時でさえも人々はリーダーをtrustworthyな人として見るのでしょうか。

 北京大側によると、ここ10年以内に誤りだったとされる政策もありましたが、その結果政治的リーダーが責められたわけではないそうです。理由は二つあって、一つ目は政治的決定が集団的になされるので個人に責任を帰そうと思えないから、二つ目は人々が誤りを自然に受け入れるからだそうです。どうやら中国では、日本よりもリーダーの誤りに対する寛容度が高いようです。リーダーが誤りを犯しても、日本のように別の人に取って代わらせようとはしません。仮にリーダーを責める場合があったとしても、それは彼の今後の改善を期待してのことだそうです。

 

 ビジネスリーダーについて議論していた時もこれと少し似た話がありました。会社が不祥事を起こした時、日本ではリーダー(社長、会長など)が辞任することがしばしばあります。しかし北京大側は「新しい人は前のリーダーより能力の劣る人なのではないのか?」という疑問を投げかけてきました。この二つの議論で共通して言えるのは、東大側はリーダーを変えたらより良いリーダーになると思っている(少なくともそう信じようとしている)一方、北京大側はその逆のことを思っているということです。私は面白い発見をしたと思いました。しかし、少なくとも政治的リーダーに関しては、北京大側は自分たちで失敗したリーダーを辞めさせたり、新しいリーダーを選んだりすることができないからこそリーダーに期待することしかできないのではないか、という声も東大・北京大両側で上がりました。ただ北京大側によると彼らがリーダーを変えたくないと考えている理由には、歴史的原因のためstabilityを重視していることと、最近の共産党の経済政策をある程度評価していることも挙げられるそうです。

 

 このように、日中間でリーダー観の違いがあってもそれがシステムに由来するものかより根本的なもの(文化、個人の考え)に由来するものか判断するのが難しい時もありました。東京セッションでは可能な限りそこに切り込めるような質問、議論をしていきたいと思っています。

 

 リーダーの特徴を表す言葉の話に戻ると、東大側が選んだpatrioticという言葉に対しても北京大側から驚きの声が上がりました。日本では、特に自民党出身の首相が靖国神社に参拝するなど、patrioticと言われるリーダーが目立ちます。しかし中国側としては、政治的リーダーはnaturally patrioticな存在だそうです。中国では国を愛し国のために働こうと思うと、政治家になるしかその思いの実現手段がないからだそうです。彼らの話を聞いているうちに気づくことがありました。日本ではpatriotism(愛国主義)とnationalism(国家主義民族主義ナショナリズム)がしばしば混同されるということです。おそらく日中戦争・太平洋戦争中にこの二つが同一視されていたことが原因なのでしょう。しかし、中国ではpatriotism(愛国主義)は国家への愛と貢献を表すポジティブな言葉である一方、nationalism(民族主義)は自分のnation(国家・民族)、歴史、文化が他のものより優れているとしてネガティブ・アグレッシブな意味で用いられるのだそうです。北京大生はnationalismが暴走しやすく例えば反日デモの際の日本車破壊のような非理性的な行動を生むとして批判的に見ていました。

 

 この時の会話からも読み取れましたが、北京大生は一般民衆に対し複雑な感情を抱いていました。別の日の議論で、東大側が「現在の中国では農村部の人々の声が反映されることが少なく、彼らの利害が十分に代表されていないのでは」と尋ねた時がありました。その時北京大生側は「感情的には現状は良くないと思うが、ある程度は仕方ない」としつつも、現状を改善するには「党内の監視システムの強化」の方が「日本のような多数決原理の導入」よりも良いと言っていました。ここでの多数決原理とは具体的には地方自治体、国政レベルの議会の選挙のことです。彼らの中には農村出身者もおり、また北京大生の多くは農村でボランティアをするので農村の実情を知っているそうです。だからこそ、彼らは農村部の人々は目先のことしか考えていない、政治のことを知らないと断言することができるのです。農村部にはless educatedどころかnon educatedな人もいるという現状は、日本とは大きく異なるものです。中国の地域間格差について知っていたつもりではありましたが、肌感覚で理解している彼らの言葉には重みがありました。これこそが、彼らが現段階では日本のような選挙制度の導入が自国ではできないと考える理由なのです。ただ、彼らは教育水準の向上が見られればこの限りではないとも考えていたようには思います。

 

 北京に渡航する前から私は中国の政治制度について疑問を抱いていました。 北京大生と議論を重ねるうちに両国間の政治制度・政治的リーダーシップの違いには合理的な理由があることを身を以て知りました。ですがそれでも、日本型の間接民主主義に馴染んでいる私は偏見があると捉えられかねない発言をしてしまうことがありました。その時北京大生に言われた言葉"Don't judge our system by your values."は鮮明に心に残りました。東京セッションでは彼らの論理・価値観をより深く知った上で、そのシステム・社会状況由来の部分とより深層の部分を知ることを自分なりの目標にし、頑張っていきたいと思います。

 

京論壇2016 リーダーシップ分科会

平田紗和子

もう一回の感動を~北京渡航を前にして~

はじめまして、京論壇2016で副代表を務めております、法学部4年の野本圭一郎と申します。

 

昨年は平和分科会に所属し、様々な感動を体験することができました。絶対に分かり合えないと諦めつつあった北京大生と分かり合えた瞬間、平行線だった議論がまとまった瞬間、そしてなにより自分自身が半年をかけて、この議論に打ち込むことができたという事実…そのような体験を出来る場を今度は作り上げる経験をしたい、そして、また昨年味わった感動を再び体験したいという思いから、京論壇2016も参加することを決めて、かれこれ10ヶ月近くたちました。

 

この10ヶ月で痛いほどに味わったことは、昨年は優秀な運営メンバー、そして分科会メンバーに支えられながら活動が出来たんだなということです。そして、いざ運営として支える側に回っても、そううまくはいかず、むしろ、また今年の優秀なメンバーに支えられているのではないかと感じています。

 

されとて、ここは京論壇、今年、僕がメインで関わっている社会的正義分科会も意欲ある議長とメンバーのもと、非常に有意義な議論ができそうで北京渡航を前に、わくわくが止まりません。

これまでの約3ヶ月を通し分科会では議論におけるトピックの選定や枠組み作りを行ってきたのですが、いざ、本番の2週間のセッションに入ってみると、想定していていた議論よりも面白いトピックが出てきたり、順調にいくだろうと思われた議論が案外、膠着したりと予測することは出来ません。何が起こるかわからないこれからの京論壇での議論から、今年新たに入った15名のメンバーがかつての自分が体験したような感動を味わい、人間的に一回り二回り成長することを祈るばかり、そして自分も副代表としてそれを支える側に回り、また新たな感動を味わいたいなと北京渡航を前に強く想っています。

 

来週には京論壇2016東大チームは北京で熱い議論をしているでしょう。

皆さん、いってきます!

 

京論壇2016 副代表

野本圭一郎